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【アラベスク】  第11章 彼岸の空



第3節 湖面の細波 [4]




 下卑た視線で目の前の少年を見上げる。今は少しだけ背の高い瑠駆真。
「華恩の家は豪邸だ。それはそれは大層なモテナシを受ける事になるだろうよ」
 陽翔はヒラヒラと右手を振って、瑠駆真の脇を通り過ぎる。そうして
「羨ましいねぇ」
 そんな捨て台詞と共に教室へと姿を消した。
 瑠駆真は、陽翔を振り返る事すらできない。ただ、必死に心内で言い聞かせる。
 大丈夫だ。
 知らずに拳を握り締める。
 大丈夫だ。何があっても大丈夫。なぜならば、僕らはどうせ、退学するつもりなのだから。
 瞳を閉じ、胸の奥で呼びかける。
 美鶴。
 自分の腕の中から逃げ出してしまった愛しい人。
 美鶴、君はきっと戻ってくる。僕の元に戻ってくる。なぜならば、君に選べる道はそれ以外にないんだから。
 僕と一緒にラテフィルへ行こう。美鶴、それ以外に道はない。君にはそれ以外に、選べる道はないんだよ。





「こんな道だとは思わなかった」
 その声に、ゼイゼイと乾いた息が混じる。石段の途中でツバサは遂に足を止め、後ろを振り返る。
「美鶴、大丈夫?」
 その質問に、返ってくるのは恨めしそうな声。
「大丈夫に見えるか?」
 剣呑な声音にツバサは思わず苦笑い。
「ゴメン、ゴメン。こんな石段だとは思わなくってさ」
 言いながら美鶴の背後を見下ろす。延々と続く石段の景色。これを登ってきたのかと思うと、我ながら感動だ。だが、そんな感動に浸っていられる余裕など、ない。
 ツバサは腕時計を確認し、止めた足を次の石段に乗せた。
「休まず登れば、時間には間に合うよ」
「ちょっと待て、今あんた、休んでなかった?」
 私にも休ませろと言いた気な美鶴。だがツバサは腕時計を指し
「これ以上遅くなると、たぶんバスには間に合わないと思うよ。こっちから待ち合わせの場所を変更しちゃったんだから、遅れるワケには行かないって」
 場所の変更はお前の都合だろうっ!
 そう叫びたいが、今の美鶴には声をあげる気力もない。再び登り始めたツバサの背中を睨みつけ、必死に石段を登り続けた。
 滋賀県と京都府の境に位置する比叡山。有名な延暦寺は滋賀県の住所のようだが、こうして実際に訪れてみると、場所によっては京都府に位置しているところもあるのではないかと思える。
 と言うか、延暦寺というものがこんな広範囲に広がっているとは思わなかった。社会の授業で習ったことのある有名な寺が一つあるだけだと思っていた。修行をする場所だということも、来て初めて知った。
 道場や寺などが山の各地に点在していて、観光客が観てまわるにはシャトルバスが必要になる。今、美鶴とツバサは、そのシャトルバスの乗り場を目指して必死に石段を登っている。
 本来なら、滋賀に住む智論を尋ねるはずだった。待ち合わせの場所もこんな山ではなく、もっと普通の平地だったはずだ。そして何より、智論を尋ねるのはツバサ一人だったはず。それがなぜ美鶴も同行し、そしてこのような石段を息を切らせながら登るハメに陥ったのか。



「なんかさぁ、私が滋賀に行くって言ったら、お母さんから比叡山に寄ってきてくれって言われてさぁ」
 ツバサからそう言われたのは、昨日の夜遅く。
 路上でツバサと別れた後、美鶴は結局帰宅した。
 店が休みの日曜日は、母が部屋に居る可能性は高い。綾子(あやこ)の店を飛び出して以降、顔を合わせたくないと思い続けていた相手が部屋にいるのかもしれないと思うと、気は進まない。
 だが美鶴は、結局は帰宅した。
 重い足を引き摺るように、母にどのような顔を向ければよいのか結論も出せぬまま、部屋の扉を開いた。
 やはり、母は居た。美鶴が扉を開けるとひょいっとキッチンから覗き込んだ。
「あぁら、おかえり。ずいぶんとご無沙汰ねぇ」
 ご無沙汰……
 同じ屋根の下に住まう親子の会話か?
 だが母は玄関で絶句する美鶴などお構いなしに、美味しそうに発泡酒を飲み干す。
「こんな中途半端な時間に帰ってきても、夕飯もなにも準備してないわよぉ〜」
 中途半端? 平均的な夕食時だと思うぞ。
「べ、別に期待してない」
「あぁ〜ら、良かった」
 母は冷蔵庫から二本目を取り出し、いそいそとリビングへ向かう。そうして壁掛け時計を確認しながらテレビのリモコンを押した。
 とつぜん湧き上がる轟音。そう、轟音と言うに相応(ふさわ)しいほどの大音量で、テレビから爆笑が聞こえてくる。
「アタシ、この時期って好きよ。新番組の始まる前って、だいたいお笑い番組の二時間スペシャルが入るもの」
 片手に煎餅。片手に発泡酒を握り締め、ガハガハと笑い声を立てる。まさに今まで通りの母の姿に、美鶴は呆気に取られてしばらくは玄関に立ち尽くしてしまった。







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